プロフィール

岡田 糧 / R y o O k a d a

プロフィール

岡田糧税理士事務所/ 代表税理士
株式会社クラウドナイン・コンサルティング/ 代表取締役
2001年    税理試験合格
2003年    税理士登録
2009年    顧問先600 件超の税理士法人代表就任
2012年    中小企業を本格的に支援するために独立開業
2015年    第1回経営支援倶楽部全国大会 営業部門・指導部門 優秀賞
     クラウドナインコンサルティング設立
2016年    第3回経営支援倶楽部全国大会 指導部門 最優秀賞
     第4回経営支援俱楽部全国大会 指導部門 最優秀賞
売上高40 億円の企業から4000 万円の個人事業主の成長を手助けする。
情熱的且つ論理的な指導で社長と会社を次のステージに導く

O K A D A ’ s  S T O R Y

僕が税理士を目指し始めたのは、たぶん予備校の時です。
高校の時(いや、もともとか!?)にあまり成績が優秀では無かったので、大学を一浪して入っています。余談ですが僕は高校のときは理系でした。
その選択理由がまた不順で、「理系だと国公立大学に行けるかも?」という友人の不明確な情報に惑わされて、理系を選択しました。
しかし僕の高校の理系は、唯一の男子クラスだったので、青春を棒に振るという寂しい結果となりました。
カムバック青春!ただ、理系でも数学も科学も苦手だったので、予備校で文転して受験に挑みました。
その際に、国語はまだいいとして、社会(?)の選択科目を最初は日本史と思っていましたが、一からやるのでは、他の受験生と比べてハンデが大きいので、
マニアックな「政治経済」を選択しました。
ちなみに受験者数は、日本史の約10%。あとで気付いたのですが、受験者数が少ないので、偏差値の変動が他の科目に比べて大幅にあります。
したがって最終的な受験までは実質的な偏差値がどこなのかは分かりませんでした。
偏差値の変動があると実態が分からないので、株価の変動で悩まされている投資家の皆さんの気持ちが少しだけ理解できます。

その政治経済を受験している時に、予備校の先生から「受験までに読んでおけ」と言われて買った本が「税のしくみ」。
結局は最後まで読まなかったのですが、大学に入ってからは相続の勉強がしたいと思ったきっかけになりました。
その頃は何かカッコいいという響きだけで経営コンサルティングになりたいとも少しだけ思っていました。

不思議ですよね、数字が苦手で理系から文系に行った結果、政治経済で税金に出会い、そして今は数字を扱う税理士になっている。

人生万事塞翁が馬ですね(笑)
人生は何がキッカケになるかはわかりません(笑)
とは言え、予備校の最初はそもそも初めて勉強する(?)国語と政治経済だったので、かなり偏差値が低かったと思います。(内緒ですが、40代前半です)
しかし、勉強量は相当しましたね!

一応自習室では早稲田・慶応を目指している受験生の近くに行って、勉強すること習慣化させていました。
ビリギャルか!(向こうの受験生はどう思っていたかは知りませんが(笑))あとは、恋愛が一番のエネルギーになっていた気がします(恥)
お恥ずかしいのですが、高校3年生の時にフラれた女の子にリベンジ(再挑戦)するために、必ず合格してみせると365 日毎日思っていましたね!
余談ついでですが、僕は全くの〝非モテ〟だったので、女性には縁がなかった故にできたのかもしれません。(ちなみにリベンジでも玉砕致しました…)

しかしこの経験が税理士試験を目指すときに大きな要素になったことは間違いありません。
こうやって考えると税理士を目指すきっかけの一つは、大学受験なのですね。
その後、志望していた大学に何とか合格したけれども、まあ勉強は普通にしている程度。(単に大学の講義を真面目に受けているだけ・・・)

アルバイトも部活(何と私、少林寺拳法部だったのです)もがんばっていたのですが、何か物足りなさを感じていました。その時に大学の広報で「大学初
公認会計士2次試験合格」という見出しを見ました。

よく分からなかったのですが、まあ相当勉強して合格したのだという事は理解できました。
それがキッカケで、3年生のゼミを選択する時に学部で一番厳しい「会計学のゼミ」を選択することになりました。
まあ例えは不謹慎ですが、教授は〝東条英機〟のような方。
卒業生は、税理士、金融機関、証券会社が多くを占めるゼミで、再度何かに打ち込みたい思いで扉を叩きました。

相当厳しかったですね、課題図書やレポート、プレゼンも心が折れそうでした。
しかし、もともとが軟弱ものの僕、早々に興味を失い、また「母(自分)を探して三千里」の旅に出始めます。
そして旅にでて1年目の後半に、同じ少林寺拳法部の女子が公認会計士を目指していることを知ります。

最初はまあ「がんばっているな~」くらいにしか思わなかったのですが、いつでもどこでも勉強している姿を見て相当刺激を受けました。
そうこうしているうちに大学3年も終わろうとして、年が明けたら就職活動が始まる、しかしやりたい事も見つからない。

・・・まさに自分探しの学生の典型のような自分。
取りあえず、リクルートスーツを買い、企業説明会に行き、大量に送られてくる企業の資料に目を通してもよく分からない。

居酒屋のアルバイトだったので、働くということは楽しいと思っていましたが、
「何が自分に向いているのか?」と、今の僕が見たら一発ビンタで「どこでも良いから働け!働いてから考えろ!」と一蹴してしまうような悩みを抱えており
ました。

そして、周りに流されるまま、様々な業種を受けたりしていましたが、心はどこか遥か彼方に行ってましたね、もうB級青春映画のように…
しかし、人生は思わぬところで大きな転換点がやってきます。

僕の名前は 〝糧〟 米を量ると書きます。
それを付けたのが父親。
父親はコメの卸売会社の社長をやっていました。
20人位の小さな会社の社長だったのですが、元々はトラックの運転手から出世(設立メンバーだったので)したので財務やマネジメントは、ほとんど理解
出来ていなかったと思います。

そんな営業一辺倒の社長だったので、社内の不正を管理することができていなかった。
結果取引先から個人賠償として数千万円を請求されていました。

今は法律家になっておりますので、何故個人が払ったのか疑問ですが、たぶん父親が責任を感じたからだと思います。
その時は家族もバラバラになっていましたので父も相当落ち込んでいたと思います。
大学に行かせて、学ばせてもらっているのに何ひとつ父親の手助けができない、自分の力不足を痛感する体験でした。

そんな幾つもの体験が重なったことにより、「税理士」を目指したいと少しずつ思うようになりました。
しかし相手は国家試験、難関試験のなかでもトップクラス。
自分の人間偏差値が42なので、そんな事はできないとも思っていました。

しかし、日々時間は過ぎていく。周りの友人も着実に内定を取ってきている。
「どうする? どうする?」 悩んでも答えはでない。
結果、「今からどこかの会社を受けるのは無理だし、年収1000万円になれるから税理士を目指そう!」という、今から思えば人生も税理士試験も、社会も
舐めきった考えで税理士を目指していました。

しかしまたそこからが酷い。

「まあ、どっかの会計事務所に入ってそこで勉強しよう!」と思って大学の就職課を訪れたら、「お前なめてんのか!」と就職課の職員に激怒される始末。

「じゃあ自分で探すからいいよ」と、名古屋の大手会計事務所の入社試験を受けるも見事に惨敗!
今は笑い話で、その事務所のスタッフに、「僕落とされましたからね~」と言っておりますが、そりゃあ僕が試験官だったなら不採用間違いないと思います(笑)

で、結局どこの事務所(3社だけですが)も雇ってくれないので、会計の専門学校に進学(?)することにしました。 (まあ実質、無職という肩書にはなり
ますが(汗))

そこからが地獄の始まりです。(その当時を思えば大概なことは小さく感じられます)
税理士試験をミルキーくらい甘く考えていたことも事実でした。
そして甘々な自分に現実の壁は容赦なく襲いかかってきます!

1年、2年までは「まあこんなものか」と思っていましたが、周りが次々と合格していき、同級生は青春真っ盛りで遊んだり買い物したりしているのを側か
ら見ていて
「自分は何をやっているのか?」と自問自答の連続。

金無い、仕事無い、女無い、の無い無いの特盛状態。

このままではまずいと思い、自宅近くの税理士事務所で働きながら受験していた時期もありましたが、人間関係の不和と合格できないという恐怖に怯えて退社。

背水の陣をしいて税理士試験に臨むも再度不合格。(韓信さん、あなたの戦略は僕には合いませんでした)
5年目に働きながら気持ちを切り替えての試験でようやく合格できました。ふう
今となっては自分の苦労はどうでもよく、最終的に何年も合格できず、いい齢をしても働かず、先の見えない息子を抱えた両親が一番不安だったと思います。

両親はただの一度も「やめたら?」とは言いませんでした。
税理士試験の合格証書は国税庁から送られてきますが、今は自分の手元には無く、両親の部屋に飾ってあります。

自分への合格証書ではなく両親のものだと思うから。
ただ自分の子供達がこの地獄に挑みたいと言ったらどうするのでしょうか?

僕が二度目の税理士事務所に就職したのは平成13年の1月です。
税理士事務所はある程度の勤務年数か税理士の資格が無いと入社は難しいです。
それ以外は、はっきりいってお荷物だから。(当時の話です)

しかしその当時の僕はその両方とも持ち合わせていない状態です。
どうしていいか分からず途方に暮れていました。
近所での就職、勤務形態、給与なんて二の次、雇ってくれさえすればどこでも良い。

もうお願いします! いや本当に!
そんな中で通っていた会計の専門学校でこの後12年働く事務所の求人広告を見ました。
今のようにネットでの求人などほとんど無い時代。

すぐに求人案内を見て連絡をしてみましたが、就職活動なんかほとんどやったことがないから実社会がどんなものかも分からいない。
相当緊張しましたね~(笑)

そして所長に電話すると、気さくに「来週来れる? 履歴書持ってきて」と経験年数や資格うんぬんは聞かれずに予想外の対応。
次の週に初代所長、二代目所長、番頭さんの3人での面接をしてもらいました。

番頭さん:「○○はできる?」
僕:「できません・・・」
番頭:「△△は知っている?」
僕:「ほとんど知りません・・・」・・・

できない、知らない、の無い無いづくし、絶望の面接の中、「来週から来て」と奇跡的内定。
「おお我が社会復帰は以外にもスムーズにいきそうだ!」
しかし後から聞いた話では所長は「縁」を大切にする方で先着順に採用していただけらしい…です。

ちなみに税理士事務所の業務は「月次の帳簿作成」と「申告書作成」の2つに分けられます。
日々顧問するお客様の会社に毎月訪問して「帳簿」を作成する。
その中で世間話や経営上の問題を話すことが多いのですが、経験や知識の無い最初の頃は、話す内容も無く、帳簿を作成して終了。
あとは単なる世間話をして帰ってきていました。
当時の上司が、かなり厳しい人で相当怒られました。

「給料ドロボー」
「お前はこの仕事に向いていない」
「本当に仕事ができない割にプライドが高い」等
(今は労基署も厳しくなりましたので、こんな事言ったらブラック認定受けますが)、根性無しなのでいつでも撤退できるように辞表を書いて机の引き出しに
しまっていました。
しかし仕事に対する哲学を持っている方だったので、 よく「帳面マン」にはなるな、と教えて貰った覚えがあります。

記帳代行だけやって帰ってくるのではなく、経営者の相談をちゃんと聞くことができるようになれということだったのですが、 自分には言葉の意味は分かる
も何をどのようにやればいいかわからずビジネス書を読むでも、税法の勉強をするのでも、研修に参加するのでもなく、ただ誰かが「何かを教えてくれない
かな~」と存在もしない〝青い鳥〟を探している状態でした。

ただ、業務自体は担当を早期に持ったためかなり忙しく休日出勤も日常的なものでした。(えらそうにすみません)
そんな状態を2、3年続けていた時に現在の妻と結婚し、税理士として登録しました。

税理士は試験に合格するとともに、事務所での実務の経験が2年必要となります。
ちょうど合格から3年を超えていたことや結婚で新しい環境になることもあって登録することを決意しました。(給料もあがるし)
しかし仕事に対する真剣味として半人前以下であったことも事実です(汗)。
そして同じ時期に税理士法が改正され「税理士法人」という組織が設立できることになりました。

税理士法人は2人以上の税理士が集まって設立する会社の事で、個人事業の枠を超えて複数の税理士が集まり高度な案件を処理したり、
親子での事業承継に使うために設立されることがあります。

前事務所の場合は初代所長に実子がいなかったので、単に二代目所長(血縁関係は無い)に税理士名を円滑に変更させる目的でした。
しかし後年にこの組織運営が自分の中ではどうしても我慢できない部分へと変化することになります。

当時の僕は入社して5年を超えていたので実務はある程度の経験は積んだものの「自信」と呼べるものはありませんでした。
しかし、満足しているわけでもなく、子供が生まれて、私生活中心の人生であった気がします。
お客様のため! ではなく日常の業務をどうスムーズに進めるかどうかだけにしか興味が無かったことも事実です。

そして平成18年、初代所長が亡くなられました。
所長は僕が入社当初から高齢で体調が悪かったため経営自体は2代目の先生と番頭さんが仕切っていたためそれほど影響はありませんでした。

2代目の所長は女性で税理士としては大変尊敬できる方です。
当時はいつまでもこの先生のもとで生きていくと信じて疑っていませんでした。
「神(先生)と大地は永遠なれ!」 って、こんな感じ。

そして組織も変化して、自分も変化しなければと思うようになり、顧問するお客様に何か提供できるものはないかと探していた中で、
たまたま読んだ雑誌に「グロービス経営大学院」に関する記事が載っておりすぐさま受講することにした。

講義自体は今まで自分が全く経験したことのない形で大変勉強になりましたが、一番印象に残ったのが「税理士業」がいかに特殊な業界であるかを知らされ
たことです。
しかし事務所への疑問、業界への疑問が積み重なっていきますが全く行動に移していない時期だったかもれません。

そして組織が変って4年が過ぎたときに、2代目の所長が60歳になるので退任を決意されました!
もう晴天の霹靂です!びっくりドッキリメカ発進!くらいの衝撃!
結果、資格保有者で一番社歴が長い自分が税理士法人の3代目を引き継ぐ形となるのです。

自分が代表になるなんて自信が無い!
いやだ!いやだ!

もう逃げ出したい気持ちで一杯です。
その時に会計事務所系の転職サイトに登録して面接を受けましたが、今から新しいところに行く勇気もなく、渋々代表に就任しました。(お恥ずかしい…)

しかしこの頃から組織図がおかしくなってきます。
自分よりの20年以上キャリアがある人達(もと上司たち)がいきなり部下になるのです。
軋轢が無い方がおかしい。

この頃から自分の力不足、人徳の無さが後々問題になってきます。
自分が所長になり事務所をより良くするためには現状を知らなければならない。
そのために、一番最初にやったことは周りの税理士と交流を図り、自社の長所短所を把握しようとしたことです。
では他の税理士との交流を図るにはどうすればいいのか? 簡単です。

税理士会に出席すればいい。

ちなみに「税理士会」は各税務署管轄によって1つあり、だいたい100 人~ 300 人の税理士で形成されています。
初代所長や二代目の所長は自身の理念で税理士会とは一線を置いていましたが、自分は鎖国状態であったため、まずは税理士会に出席しようと思いました。
しかし毎月開かれる連絡会に出席して知り合いなどはできるはずもありません。

そんな中でたまたま保険会社が主催した会合の後で、他の税理士の方と駅で遭遇して名刺交換をしたところ、「飲みに行こう」という流れになりました。(こ
の出来事が後々人生の転換点となります)
偶然の出会いでしたがこの時に出会った先生方は心から尊敬できる方であり、本当に感謝したい出来事でした。

そしてその時に税理士会のソフトボール部を薦められました。
小学校の頃「なんちゃって野球部」であった僕だったので、一度は断りましたが、「何か」が見つかるという無意識の思いから入部を決意!実に20年ぶりに
バットを持つ羽目になりました。

ちなみにこのソフトボール部、結構皆さんが本気だったので最初の頃はかなり浮いていた覚えがあります(笑)
この歳になって転校生の気分を味わうなんて!と思いながら1年間はまったく休まずに参加。

しかしそこから確実に知り合いが増えていき、色々な勉強会も教えてもらいました。
そのような形で他の税理士の方と交流を持つようになり、考え方や業務の内容、自分たちがどこに重きを置いて仕事をしているのかを教えてもらう度に、事
務所に持ち帰り他のスタッフ達に伝えていましたが、ある時先輩の一人から「岡田君は先に突っ走り過ぎる」と言われました。

当然あれもこれもと事務所に無理やり取り入れようとする自分に反発する人も多かったことも事実です。
自分が事務所の代表であるという変なプライドと社員を従わせようとする中での軋轢です。
その中で大きな対外的な問題が発生します!

しかしその時は自分が悪いと全く思わず、ただ社員が悪いと思っていました。
この時に後輩と食事に行き、自分自身の事務所改善への覚悟が足りないと痛感、その後は「事務所を良くしたい」という思いから全ての行動をとるようにな
りました。

結果、同僚や後輩の意見を聞き、どういう行動なら良いかを考えるようになりました。
そしてその思いは同時に顧問するお客様に向き始め、リーマンショックも重なり景気も悪かったので「絶対何とかしましょう」と熱く、とてつもなく熱くなっ
ていた時期です。

余談ですが、この情熱がMASをやる上で、必須のスキルになっています。
そして忙しくても外部の情報を集め、事務所へと粘り強く落とし込もうと努力しました。
「自分が変われば、自分が成長すれば事務所が良くなる」その一点だけ。
しかしある時に番頭さん達との意見が合わず、社員全員の意見を聞くことになりました。

当時僕は一番信頼されているものだと勘違いしていたので、社員の大半が番頭さん側に付いたことがショックでした。

相当落ち込みましたね、夢遊病者ってこのことだろうと・・・。

「会社を良くしよう、みんな自分を変えよう」、そう言ってきましたが、何もかもどうでもよくなってしまった瞬間です。
半分すねての退職と言われればそうかもしれませんが、今となっては自分が独立の道を選んだ単なるきっかけにすぎません。

色々な事を考える機会にもなりましたし、何よりも行動しなければならないという原動力になってきました。
今となってはその当時の社員に対する感情は無く、自分の器が足りなくて、周りに不満を感じて、そしてそれが返ってきただけ話だと思っています。

自分が受け止めきれなかっただけ。

そして何よりも本当に望んでいるのは、自分が成長しなければならないことです。

そして責任ある行動をしていきたい、真剣に仕事に打ち込みたい、税理士としての仕事を自分の使命としたい、それだけですね。

そしてここまで育ててくれた前の事務所の人達には本当に本当に感謝しています。
仕事の辛さ、楽しさのほとんど全て、その事務所で学びました。

本当に多くの事をやらせてもらいました。
普通の税理士事務所では絶対にできないことをまだまだ半人前に自分に経験させてもらいました。
従業員20人の事務所の代表社員税理士という立場はこの年齢で経験できることはそう無いと思います。

これからは学んだ全てのことを自分の周りにいる全ての人に使う義務がある気がします!

これまで書いてきたように私はそれまで勤めていた税理士法人(会計事務所)では三代目の所長(代表社員)の立場でしたが、
自分の身勝手が原因で周りとの協調が図れずに飛び出すような形で独立しました。

先代、先々代は私に「想い」を託してくれたのに、継げなかったという後悔の念が今もあります。

だからこそ「クライアントの成長に最大限の貢献する」という」自分の理念に共感してくれる組織を作っていきたいという想いが人一倍強くあります。

しかし独立当初はこれといったスキルはありませんでした。
特殊な案件は、ほとんど経験したことはなく、「岡田さんは何ができるの?」と言われても「…クライアントの成長に情熱を傾けます」いうような回答が精一杯。

しかし24年9月に東京で開催された「NN構想の会」(会計業界の将来を考えるセミナー)で出会った長崎の岩永先生の「会計業界を変えることが日本の中
小企業を変えることに繋がる」という声を聞いてMAS に特化することを決意しました。

しかし具体的に“MAS” をやろうにも自分で理解しているのは経営計画ソフトを使った数値計画のみ、
中期経営計画立案セミナーを開催してもその後に何をやっていいか分からない状態。
他の先生に聞いても「やればできる」と具体的ではない回答。

そんな時に再会したのが加藤義昭先生(現税理士法人BrotherShip 代表)、既にMAS 案件を何件も受注している状態でした。

3年前にスタートした時期は一緒なのにこれだけ差が開いているのは何かポイントがあるのではないかと加藤先生に聞いた時、㈱インターフェイスを紹介さ
れました。㈱インターフェイスはMASを中心に会計事務所のコンサルティングを行う会社です。
イニシャル研修と年会費が70万円、正直開業時だったのでこれ以上投資はしたくなかったのですが、加藤先生を信じて入会しました。

ちなみに余談ですが、その時に銀行残高が30 万円でしたが、お客さんの前払いで40万円いただき、それを充てました(笑)
資金繰りには要注意ですね(笑)

そこからが大きな壁との戦いでした。

≪ちなみにMAS とは?≫
MAS はManagement Advisory Service(マネジメント・アドバイザリーサービス)の略で、簡単に言えば経営支援業務のことです。
営業、開発、生産、財務、人事組織という経営上の機能を財務と論理的思考を使って課題を抽出して、それを整理して解決に向かう手伝いをすることです。

経営者の税理士の求めることの第1位が「経営の相談」です。

しかし実際にできる事は何でしょう?
売上を上げることができますか?
生産のボトルネックを見つけ出すことができますか?

実際はできないことの方が多いです。
しかしそれは単に「やり方」が分からないだけで、「考え方」は身についています。
何故なら、税理士だけが財務諸表を作成するというスキルを持っているから。このスキルは経営全体を見渡すことができます。

そしてこのスキルを応用すれば売上の詳細も把握できます。今まではそれをやっていなかっただけなのです。

多くの中小企業の経営者は財務と論理的な思考ができません。したがってこの支援をしていけば必ず企業は良くなります。

私はMAS を通じてその成長する起点を創造していきまたいと思っています。

初めてMAS を受注したクライアントは粉飾決算と借金で首のまわらない会社。
通常MAS 契約は会社の
①経営診断(ヒヤリングと財務分析)
②課題設定
③提案書作成
④受注
⑤指導(数値管理)

①→⑤の順で改善を進めるのですが、①の経営診断をする前に受注をいただけるというミラクル発生!
周りの先生からは「やっぱ岡田さん持ってるね!と褒められまくられる始末

結構調子に乗っていましたが、ここからがシス(暗黒面)との戦い。

会議に行っても社長がいない、資料が無い、日ごとに辞めていく社員達。
何をどうしていいかわからない、相談相手のインターフェイスの担当者にも何を聞いていいか分からない。

コンサルティングって何すりゃいいの?
わからない?
わからない?
わからない?
わからない?

そうこうしているうちに、会社の業績はさらに悪化し、銀行に社長と行っては頭を下げるしかない。
結局粉飾が当時考えているよりも悪質だったことや、アッチ系の人たちの噂が社員から聞こえてきたので、あえなく契約解除・・・
しかも顧問料もほとんど貰えずに、何を得たのやら・・・ふう

そして同じような案件が再度舞い込んできます。
これも知り合いの社長からの紹介で、どうしても助けてほしいと言われていました。

当時インターフェイスの担当者は、「そんな案件無理です、手を出してはいけません!」と言われていたのですが、売上が欲しい当時の僕は、目を瞑っての契
約書に押印!

まさに、「えいや~ やったれ!」

しかしここでもいきなり凄まじく大きな壁が!!

粉飾決算は当たり前、前社長がいなくなり、経理担当者も変わり誰も実態が分からない借金が粗利の倍ある会社

そして銀行陣が武田の騎馬隊の如く怒涛の攻めをしてくる状況!
さらに下剋上さながらの内紛状態の経営陣!

ん? 僕はつい先日まで税理士の日常業務以外やったことのない特徴のない税理士ですよ・・・
できるわけないでしょう!

そう思って、他の税理士の先生に変ってくれるよう依頼しようかと思っていた時に、たまたまインターフェイスの勉強会で広島のI先生(税理士の方)とお
会いして話を聞いてもらいました。

I先生は広島では有名な再生案件専門の税理士。とても熱く仕事に対する哲学を語っていました。
そして勉強会が終わり、帰り際にI先生から「君ならできる! 絶対何とかなる」そう言いながら手を握ってくれました。

そこで何かが変わりました!

I先生は再生案件で一番嬉しかった事は、自殺しそうだった社長から「命の恩人」と言われたことです。

では、その僕は会社を再生させるために何をしたのか?
はっきり言います!

何もしておりません

戦略も、人事教育も、マーケティングも何も!

会社に行って社長の話をひたすら聞いただけです。
その社長は自分で作った借金ではないのに、7億円の連帯保証人に一人でなった男気のある方。

それを目の当たりにして、引くほど僕も軟弱ものではありません。(カイさんもやる時はやります)

ほとんど毎日(社員か! と言われるくらい)会社に通っていました。
その頃は仕事もそれほど多くは無かった(恥)ので、行ける時は必ず会社に顔を出していましたね。

その時に社長が大きく変化した言葉があります。
「やれないのではなく、やらないだけでしょ」

強面の社長によくもまあ、そんな事言えたな~ って今なら思えますが、当時はかなり真剣に言い合っていました。
しかしそこで社長の絆がかなり深まりました。

もう一蓮托生ですね!
心から信頼していただけるので、僕も八方手を尽くして会社のためになる人を手当たり次第社長に合わせました。
東京のコンサルティング会社にも頭を下げて助けていただいた御縁で、今でもよくしていただいております。

しかし、それでもさすがに資金繰りが悪く,日々綱渡りのような状態です。
朝電話がかかってきて、「金が無い!どうしよう」なんてことも日常茶判時。
ただ、一度転がる石は中々止まりません。

従業員が辞めていき、問題が後から後から見つかる状況

結局は会社を売却することで決着を付けました。

M&Aという用語しか知らない僕が買収の交渉を行うなんて誰が想像できたでしょう!

この2年間で独立前の10年よりも濃い仕事をさせていただきました。
そして、会社が無くなった次の週に社長に呼ばれ食事をしました。
その席で、社長は僕の目の前に正座して涙目で一言こう言われました。

「正直何度も自殺を考えた、孫の顔と先生のお蔭で死なずにすんだよ」

もう涙が止まりませんでした。

こういう仕事がしたい!苦しくても、辛くても、命を輝かせる仕事がしたい!

税理士になり、何をすれば輝けるのか、自問自答した10年間。結局は、目の前のクライアントのために命を使うことが、僕の税理士としての使命なのだと

他の税理士方は優秀です、僕とは比べ物にはなりません。
ただ、自分は関係するすべての人の成長の起点を作りたい。

自分と出会う事で、成長の角度が1度上がる。
たかが1度 されど1度です。

クライアント、スタッフ、家族、そして友人たちが人生を振り返って岡田糧税理士事務所と出会えてよかったと思える日が来ることを心から願っております。

PAGE TOP